昔の暮らしを知ってみよう

歴史民俗資料館で展示している「ワラ細工」などを中心にご紹介します。

南魚沼の養蚕

小学校の課外授業があると、「夏には養蚕(ようさん)を行いました」と説明しています。蚕(かいこ)の写真を見せると「あ、虫だ。きもちわるい」と言って騒がれたり、説明に苦労します。

その「苦労」は、私自身が養蚕について、よく知らないことも原因です。春は田植え、秋は稲刈り、冬は雪。それらの季節に使った古い道具は、見るだけでも「なるほど」と思います。でも、「夏は養蚕」が、ピンときません。

資料室で養蚕について調べると「壮蚕共同飼育所」の写真が何点かありました。撮影は昭和47年、場所は泉盛寺。そこで「織の文化館 塩沢つむぎ記念館」の館長・南雲正則さんに「昔、蚕を飼っていたという人が、塩沢町にいませんか?」と尋ねました。

紹介されたのが天野沢の南雲和子さん(76)と、近所に住む80代の女性3名。天野沢生まれの南雲さんは小学生くらいから、女性方は20代で嫁いでから養蚕を手伝ったそうです。

蚕は「ぼこさま」、死んだ蚕は「おしゃりさま」と呼ばれ、大切に扱われました。

蚕を入れる、浅い箱状の入れ物「サシコ」を収納した棚は、風通しの良い室内に置きました。間隔は狭く、落ちた蚕を踏みつぶすと「それひとつがカネだろと言われて、おっつぁれた(怒られた)」そうです。

「いくらくらいの収入になったんですかねえ」と質問すると、「嫁には教えてもらえなかった。7月頃、祭り小遣いをもらうだけ。それで浴衣を買ったりした」と答えました。

大変だったのは、蚕が食べる「桑の葉」を採りに行くこと。朝昼晩の1日3回、「たす(カゴのこと)」を背負って、女性たちの場合は20キロほどの距離を運んだそうです。少ないと間に合わないので、大量の桑の葉を刈って、たすに詰め込みました。「たすが歩くようだと言われた。まず、よういでねえこって(大変だった)」と言って、女性は笑いました。

家業として大切だった養蚕でしたが、30~40年ほど前に止めた家が多かったのでは、ということでした。『南魚沼の蚕糸業』(山崎貞治・著)には、「養蚕も戦争により労力、資材は不足して生産減退一路、桑園も食糧増産の畑と化し養蚕は大減収となった。」「輸出と輸入が遂に昭和38年に逆転し(中略)繭生産量も昭和5~8年を頂点として再び減産に転じた」と記載されています。

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 蚕に桑をやると、雨音のようにザーッと食べる音がしたとか。寝られないほどにぎやかだったそうなので、当時はわずらわしかったかもしれませんが、もう南魚沼で聞けることがない音だと思うと、さみしいような気がしました。

ワラたたき

夏休み期間に3日間、小林守雄さん(85)を講師に、わらじ作り体験を行いました。事前の準備でワラ叩きが大変なので、私もやろうと、ワラ5束を持って小林さん宅へ行きました。

ワラ叩きは、細工しやすいよう柔らかくするためと、ワラの繊維の緻密性と弾力性を増加するために行います。木製の「横槌(よこづち)」で、穂先まで全体に叩く作業。日頃、物を「叩く」ことがあまりないので、難しく感じました。持ち上げた横槌を、ワラに落とすだけの状態になります。小林さんから「暗くなるまでやっても、1束も終わらないなあ」と言われました。

そこで、体勢を変えてやってみたのですが、最初より叩ける感触があるものの、能率は殆ど変わりません。

汗を流しながら叩き続けて約1時間、やっと1束と半分くらいを叩けました。親指の皮がむけ、後日、腕が筋肉痛になりました。

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情けない経験は勉強になりましたが、体験に必要なワラを、どうしましょう。「展示してあった、ワラを潰す機械を使おう」と小林さんが提案しました。

展示品ですか、動くのかなあ。不安に思いながら動かしてみると、小林さんいわく「十分に使える」。持ち上げると、鉄製なので相当な重さでした。

直径約50センチのハンドルをまわし、溝のあるローラーにワラを挟んでいきます。叩くというより、潰しているかんじです。ハンドルを回すには力が要り、ローラーに通したワラは、ワシャワシャと音をたて、かすかに煙を上げました。叩いた後には細かいワラが落ちて、横槌で叩いたのと同じだなと思いました。

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「こんなに便利な機械、もっと早く教えてくださいよ」と小林さんを責めながら、「文明の利器、すごい」と感嘆しました。昔の人も、私と同じように思ったのでしょう。

ワラ叩きは重労働と痛感しましたが、他に「重労働」として何があったのでしょう。小林さんに聞きました。

「物を運ぶのは大変だった。何でも背負って運んだ」

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物とは具体的に何ですか?

「薪用に切った木や、堆肥(たいひ)用に刈った草を、山から背負って降りた。稲は、はざかけする場所まで。嫁入り道具のタンスも背負って運んだ」

木やタンスはともかく、草や稲も重いんですか?

「60キロ近い重さになるまでくくった。その時には、背負い台を使った」

「背負い台」は1メートルほどの長さの木材2本を約25センチ幅で固定した道具。それに物をくくりつけて背負いました。俵などはワラ製の「背中いち」をつけ、肩と背中を保護してから、荷縄で自分の身体に物をくくりつけました。

「昔は、物を運ぶには何でも背負った。背中いちなど、無くてはならない道具だったけど、今の時代には全く必要ないね」と、小林さんは話しました。

ヒロロ製ミノ

毎年、夏休みに「クイズラリー」を開催しています。3年前、「鳥追い祭りの写真で、子どもがかぶっているものは何ぼうしでしょう」という問題を出しました。

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答えは「すげぼうし」でしたが、「わらぼうし」と書いた人が多かったのです。展示品にならい、答えは「すげ」としましたが、お客様から「すげって何?」と質問されました。

「スゲは草です」と答えると「ワラとは、どう違うんですか」と、また質問。「ワラは稲ですよね。スゲは、その辺に生えている草です」と、ワラ細工職人の小林守雄さんから聞いたように説明しました。

でも「その辺」って、どの辺なんでしょう。スゲ以外に、ヒロロ(ミヤマカンスゲ)も、ミノを作る際に用いられました。

湯沢町史・双書7『湯沢町の民俗(1)雪の越後 山里湯沢・三国越え』には、「一般にヒロロと呼ばれるミヤマカンスゲは、山間地に自生しているカヤツリグサ科スゲ属の植物で、ワラより軽くて水はけが良いため、雨具の材料としてよく用いられた。(中略)ヒロロは、ワラよりしなやかなので細かい細工がしやすかった」と記載してあります。

小林さんに「ヒロロを採りに行くことってないですか。もし採りに行くなら、採る所を見せてほしいのですが」と聞いてみると、「道芝(ミチシバ)なら採りに行ったよ」との答え。

道芝はヒロロより採りやすい場所に生えているので、小林さんは魚野川沿いの土手で採ったそうです。 

見せてもらいに行くと、道芝でミノを作っていました。

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当館ではワラミノやヒロロミノを展示していますが、道芝ミノとは初めて聞きました。実は、小林さんも道芝で作るのは初めてとのこと。「興味深々で作っているよ」と話し、目を輝かせていました。

40~50センチの長さで揃えた道芝は干した後、両手でつかむ位で束にして、80束ほど用意。ミノ4着を作る予定です。

竹をしならせて、首のカーブを形作り、そこから6センチくらいの長さで編んで段にしていきます。道芝は太い部分と細い部分の差があるので、ワラで作るより難しいそうです。

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「ワラ細工の中で一番難しいのがミノ。親が作ったと言う人はいるけど、自分で作られると言う人は少ないと思う。ミノを上手に作られたら、ワラ細工の作り手としては一人前だね」と、小林さんは話しました。

職場体験学習

中学2年生の「職場体験学習」が行われました。当館で、わらじ作り体験の講師を務める小林守雄さん85才とは71才違い、14才の中学生です。

常々、現在と「昔の暮らし」の違いを実感していますが、中学生にとって、小林さんが昔、暮らしていた当時の様子は、どう感じるものなのでしょう。

そこで、展示されているワラ細工品や農具などを見ながら、小林さんから昔の話をしてもらいました。

3つ並べて展示されている「つぐら」のパネルを伏せて、中学生に「何を入れたと思いますか?」と質問しました。

「猫つぐら」を見て「犬が入ったのかな」と予想しましたが、小林さんは「昔は家の中で犬を飼うということはなかった。今、このような猫つぐらは人気があるから頼まれて作るけど、昔は木の箱を使っていた」と話していました。※木の箱は常設展示していません。

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ご飯を保温した「飯つぐら」は「赤ちゃんをお風呂に入れるときに使ったのかなあ」との予想で外れましたが、赤ちゃんを入れた「つぐら」は「赤ちゃんが寝るのかなあ」との予想で正解。でも、「寝る」というイメージとは少し異なります。小林さんが解説しました。

「1才位になると自分で抜け出たので、布団で巻いてからヒモでしばって入れ、周りに布を詰め込んだ。がっちりしばって、絶対に動けないようにした」

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「なんか怖い」と感想を話した中学生。なぜ、そうしたと思うか問うと、「赤ちゃんだけ家に残すと危ないから」と、きちんと理解していました。

昔の食生活についても、小林さんから聞きました。

「昔は、1食でひとり一升(10合)食べた。めんぱ(山仕事などに持って行く曲げ物製の弁当箱)に、箸を差したら持ち上げられるくらい、ごはんを詰め込んだ。そのくらい食べないと仕事にならなかった」

中学生が「米俵60キロも、縄ないで作った縄を使って担いだんですか」と質問しました。もちろん担いだのだそうです。

「中学生くらいになると一人前に働かされたけど、特別なことじゃなかった。朝から晩まで働いた」との小林さんの答えを、しっかり聞いていました。

話を終えて帰る際、小林さんは「一生懸命に聞いてくれて嬉しかった。知らないことを質問する、というのは大変なことだ」と感心して話していました。

小林さんが帰った後、中学生は手紙を書いてくれました。「昔の知らない話を聞くことはとても面白く、そして自分たちがいかに楽をして生きているかが分かりました」という内容、私も同感です。そして「ごちそうは肉ではなく、お餅や赤飯だったと聞いてびっくりしました」ということも。私も「鶏肉やタマゴかな」と思っていたので、「お餅なんだあ」とびっくりしました。

昔の農作業

雪国館では「わらじ作り体験」を夏休みの3日間(2016年7月30日、8月20日、8月27日)、開催します。講師はワラ細工職人の小林守雄さん(85)。体験は片足分だけの作業ですが、完成した片足分がお土産でつきます。ですので、小林さんからたくさん作っておいてもらわなければなりません。

倉庫に保管していたワラを小林さん宅へ届けると、言われました。

「これじゃ足りないなあ。すぐったら、いくらにもならない」

そうでした、すぐるんですよね。「すぐる」とは、ワラの「はかま」(「シビ」とも言います)を取り除くことです。ちなみに、はかまは捨てたりせず、「ワラ布団」や「つぐら」に詰めたりして使いました。

稲刈りの際、コンバインなど農業機械を利用するようになってから、ワラは細かく裁断して田んぼに撒くようになりました。

今の時代、ワラって、どうやって手に入れられるのでしょう。

インターネットで調べると、通信販売で買えるようですが、米どころに居ながら送料をかけてというのも惜しく、地元で探したい思いがありました。

そこで、イベントでお世話になった方から「ひらくの里ファーム」の青木拓也さんを紹介してもらい、南魚沼市の山谷までワラを仕入れに行ってきました。

前回、牛馬を飼っていた家を調べて分からなかった内容を書きましたが、拓也さんの祖父、喜義(きよし)さん(83)に「昔、牛や馬を飼っていませんでしたか」と聞いてみました。

すると、「それぞれ一頭ずつ飼っていた」とのこと。昭和47年まで住んでいた茅葺屋根の家には「厩舎(うまや)」があり、人間と一緒に暮らしていたそうです。

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【写真は青木さん所蔵】

農作業や荷物の運搬以外にも、牛馬は必要とされていました。昔は、田畑に堆肥(たいひ)を撒かねばならず、牛馬の糞をワラに混ぜ、発酵させて使ったのです。3月末頃にかんじきを履いて、まだ雪がある田畑の角に4か所ほど1メートル真四角に穴を掘り、ソリに堆肥を積んで穴に運び入れ、雪が融ける頃に「肥(こえ)かご」で撒いた、という話が印象的でした。そのように農作業していたとは始めて知りました。

今、お米が8俵とれる大きさの田んぼでも、昔は6俵しかとれなかったそうです。家族が多いこともあり、お米は今よりもずっと貴重だったのでしょう。

喜義さんは、近所のお姉さんがウツギの葉を取りに山へ行っていた話もしてくれました。糧飯(かてめし=米の消費を抑える目的で廉価な食品を炊きこんで増量した飯)として、塩漬けにした葉を塩抜き後、搾ってから包丁で切り、ご飯が煮立った時に入れたそうです。「青くて甘い香りがしたね」と、喜義さんは懐かしそうに話しました。

牛用と馬用の、わらじ

前回の掲載後、ワラ細工職人の小林守雄さん(85)から電話がありました。

「牛用のわらじ、と書いてあったのは間違いだね。あれは馬用だ。」

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【 ↑ 左が「牛用」ではなく、「馬用」のわらじ】

あら~、不勉強で大変失礼いたしました。前回をご覧くださった皆様に、お詫び申し上げます。

牛と馬。どう違うのでしょう。そこで、南魚沼市鈴木牧之記念館に、牛用のわらじが展示されていると聞きつけ、写真を撮影して来ました(撮影には許可が必要です)。

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見てすぐ、形が違うことが分かりました。しかし、どうして違うのでしょう。小林さんに質問しました。

「だって、ツメの形が違うもの。見たことない?」

そう言われると、牛や馬を見たことなんて、ありましたっけ。私は昭和40年代生まれです。子どもの頃、近所に牛を飼っていた家があったような記憶がうっすら、ありますが。

そこで、湯沢町で牛や馬を飼っている家がないか調べましたが、分かりませんでした。それなら、過去にはと調べ、資料室で牛舎の写真を見つけました。

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昭和50年頃の土樽(滝ノ又)の写真です。早速、牛舎があった場所を訪れてみたのですが、分かったのは、昔、あった場所だけでした。

当館では、牛馬に引かせて水田をかき均す「馬鍬(まぐわ/まんが)」を展示していて、作業の写真もあります。

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滝ノ又の畑で、82才の女性が仕事をしていたので、声をかけました。写真を見せて「この辺りでも、この写真のように馬や牛を飼って農作業していましたか」と質問しました。女性は、南魚沼市中之島に生まれ、実家では中学卒業頃まで馬を飼っていたそうです。写真を見て「はなっとり、したね」と言いました。「鼻取り」、牛馬の鼻綱をとって誘導することです。

「山袴(さんぱく)をはいて、縄でヒザの下を結んで、裸足で田んぼに入って作業した。大変だったこって。」

昭和30年頃から耕運機を使うようになり、牛も馬もいなくなったんだそうです。

さて、牛と馬のツメの違いを調べていたのを忘れていました。実物を確認するのは残念ながら諦めて、インターネット検索。牛のツめは真ん中から割れていますが、馬のツメは割れていません。わらじの形は、ちゃんとそれぞれの足に合うように作られたんですね。

小林さんの家には牛がいて、荷物を乗せて牛車を引かせるとき、小石を踏むと痛がったので、わらじを履かせました。

昔は、牛や馬が家にいて、家族の一員のように働き、働かせた後はきちんと休ませて大切にしていたそうです。昭和30年頃というと、50~60年前くらいですが、本当に今とは違った暮らしをしていたんだなあと思いました。

民具、ワラ細工

湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」には、川端康成の小説『雪国』に関する展示の他、昔の農具や民具がたくさんあります。(ちなみに当館で「昔」と言うとき、大正から昭和初期をイメージしています。その頃の道具が当館には多いからです。)

その頃に生活していた人は、それらを見ると「なつかしい」と言います。私はその頃には生まれていないので、道具を知ることで昔の生活を想像します。それはとても面白いことです。

民具で多いのは、ワラを叩いて縄にしてから編み込む「ワラ細工」。履きものでは、ワラジ、ゾウリ、長ぐつ(湯沢町では「フッコミ」と言います)などがあり、人間用だけでなく馬用のワラジもあります。

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【左から、牛用のワラジ、ワラジ、足半】 ※「牛用」は間違いで「馬用」でした。

当館では体験イベントとして「ワラジ作り」を不定期で開催しています。魚沼市(旧堀之内町)生まれ、現在は湯沢町在住の小林守雄さん(85)が講師。「親に抱っこされて、3才くらいから縄ない(ナワを作ること)をしていた記憶がある」と話している「ワラ細工職人」です。

両親が囲炉裏端(イロリバタ)でワラ仕事をしていたので自然に覚え、「足半(あしなか)」という、かかと部分の無いワラジなら、小学校4年生くらいで作られました。

近所には小学校の分校があり、1~4年生と冬季のみ全学年が通いました。冬季にはワラの長ぐつ、それ以外では足中を履いての通学。雪で濡れると、囲炉裏にかけられた「火棚」の上に置きましたが、あまり乾かなかったそうです。

魚沼市では、ワラの長ぐつを「スッペ」と言いました。湯沢町では「フッコミ」と言い、スッペは爪先を保護するワラジのことです。同じ呼び方なのに、違う土地では別の物になるんですね。

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【左から、フッコミ、スッペ】

昨年、小林さんから当館へ4足のフッコミを寄贈していただきました。大きさを作り変えてもらったので、親子揃って履けます。履く前には「ちくちくしないかなあ」と不安そうな人も、履いてみると気に入って欲しくなったりします。

たくさんのワラ細工を作る小林さんですが、それでも「なかなか思うように出来上がらない」そうです。

「でも、自分が思い描いたように作られる時が、たまにある。そういう時は、ほれぼれするね」

今も、ワラ叩きをしている小林さん宅へは、その独特な音を聞いて訪ねて来る人があります。昔は、村中にワラ叩きの音が響いたのでしょう。想像すれば、その音が聞こえるような気がします。